【新華社東京9月19日】日本の市民団体による「日本軍の毒ガス展」が8月下旬、横浜市で開かれた。会場では、日本軍による毒剤の生産から毒ガス弾への充てん、戦場での使用、敗戦後の中国での化学兵器遺棄までをたどる資料が展示された。
来場者の一人は「日本軍による化学兵器の使用については、特に若い世代では知らない人が多い。中国への加害の歴史は絶対に学ばなければならないと思って見に来た」と話した。
同展実行委員の五井信治さんは「規模は大きくないが多くの人が来てくれた。もっと多くの人にこうした歴史を知ってほしい」と語った。
明治学院大学国際平和研究所の松野誠也研究員は、東京第2陸軍造兵廠(しょう)曽根製造所の1941年度の生産作業報告を調査し、戦時中の毒ガス弾製造の実態を明らかにした。
松野氏によると、曽根製造所は毒剤を砲弾に充てんする工程を担った。日本軍の対外侵略拡大に伴う需要を受け、41年度には作業員を増員し、毒ガス弾の生産量を増やした。
松野氏は、日本の敗戦時に関連資料が大量に焼却、廃棄、隠蔽(いんぺい)されたと指摘。今回確認された内部資料によって、これまで十分に分かっていなかった毒ガス弾製造の一端が明らかになったとした。
日本軍による化学兵器使用の責任は、東京裁判で追及されることはなかった。統計によると、日本軍は中国国内だけでも化学兵器を2千回以上使用し、中国の軍民20万人余りが死傷した。敗戦後に遺棄された大量の化学兵器によっても、これまでに2千人以上が死傷している。
NPO法人「化学兵器被害者支援日中未来平和基金」の菅本麻衣子さんは、日本の市民団体が長年、中国で遺棄化学兵器の被害を受けた人への医療支援を日本政府に求めてきたが、交渉は思うような結果に至っていないと話す。
菅本さんは「戦争から長い時間がたち、遺棄化学兵器の被害について知らない人が増えている」とし、日本軍が化学兵器を用いた歴史を改めて伝えていくことが重要だと訴えた。