日本軍虐殺から84年 マレーシアで語り継ぐ生存者の記憶

日本軍虐殺から84年 マレーシアで語り継ぐ生存者の記憶

新華社 | 2026-09-19 11:48:00

マレーシア・ヌグリスンビラン州ティティに建てられた「余朗朗蒙難華族同胞紀念碑」。(8月28日撮影、クアラルンプール=新華社配信/張紋綜)

 【新華社クアラルンプール9月19日】「祖母も姉妹も、叔母も母も、みんな日本軍に刺し殺された」。日本軍による虐殺から84年。90歳を超えた蕭招娣(しょう・しょうてい)さんは、マレーシア・ヌグリスンビラン州ティティで、当時の痛ましい経験を改めて振り返った。

 1941年12月8日、当時のマラヤに日本軍が侵攻し、3年8カ月にわたる占領が始まった。日本軍は占領下で、抗日活動への支援を疑った華人を主な対象に、大規模な摘発や殺害を行った。一連の事件は「粛清(スック・チン)」と呼ばれている。

マレーシア・ヌグリスンビラン州ティティで、当時の痛ましい経験を語る蕭招娣さん。(8月27日撮影、クアラルンプール=新華社配信/張紋綜)

 42年3月18日、日本軍はティティのジュルンドン(余朗朗)村で住民を殺害し、村に火を放った。地元華人社会の集計では、この日だけで民間人1474人が犠牲となった。日本軍によるマラヤ占領期で1日の民間人犠牲者数が最も多い虐殺事件とされる。

 当時まだ子どもだった蕭さんは、母親や近隣住民らと共に村の一軒の家に連れて行かれた。

 「母はひざまずいたまま刺された。母は私に覆いかぶさって守ってくれた。日本兵は私の脚を刺し、叔父の頭をおので打った」

 蕭さんはズボンの裾をまくり、当時負った傷痕を見せた。

 しばらくすると、日本兵が戻ってきた。倒れている村民の肩を一人ずつたたき、生きている者がいないか確かめたという。

 「動くことも、目を開けることもできなかった」

 日本兵が別の家を調べている間に、蕭さんは隣家の年配女性に助けられて逃げ出した。その後、日本兵は家々に火を放った。

マレーシア・ヌグリスンビラン州ティティで、当時の痛ましい経験を語る蕭招娣さん。(8月27日撮影、クアラルンプール=新華社配信/張紋綜)

 ジュルンドン村だけではなかった。ヌグリスンビラン州の華人史を研究する王亮傑(おう・りょうけつ)氏によると、日本軍はシンガポールやマラヤで大規模な摘発や殺害を行った。主に抗日活動への支援を疑われた華人を対象としたが、実際の犠牲者には高齢者や女性、子どもも含まれていたという。

 王氏は「日本軍から『不審』と見なされた村に住んでいるというだけで、殺害の対象になることもあった」と語った。

 記録によると、42年3月だけでも、ヌグリスンビラン州各地で20件を超える虐殺事件が起き、5千人近くが犠牲となった。マレーシアやシンガポールの研究者は、記録が十分に残っていないため、実際の犠牲者数はさらに多かった可能性があるとみている。

マレーシア・ヌグリスンビラン州で取材に応じる華人史専門家、王亮傑氏。(8月28日撮影、クアラルンプール=新華社配信/張紋綜)

 蕭さんら生存者はこれまで何度も取材に応じ、一部は日本を訪れて自らの体験を語ってきた。蕭さんは「これまで何度話しても届かなかった。日本人たちは、マラヤでは人を殺していないと言って、認めようとしない」と語る。

 マレーシア愛国同盟クラブの郭義民(かく・ぎみん)事務局長は「過去の過ちを真摯(しんし)に反省してこそ、本当の意味で未来に向かうことができる」と指摘した。「どれほど年月が過ぎても、この歴史が正面から受け止められ、謝罪がなされるまで訴え続けていく」と述べた。

マレーシア・ヌグリスンビラン州で取材に応じるマレーシア愛国同盟クラブの郭義民事務局長。(8月30日撮影、クアラルンプール=新華社配信/張紋綜)

 1984年、ヌグリスンビラン中華大会堂は、日本占領期に同州の華人が受けた被害に関する史料を集める委員会を設立した。生存者や犠牲者遺族の証言を整理、記録し、88年に「日治時期森州華族蒙難史料」としてまとめた。

 この歴史に対する日本の向き合い方について尋ねると、蕭さんはしばらく黙った。視線の先には記者が手にしていたその史料集があった。

 「全部、本当のことです。ここに全部書いてある。この本を東京に持って行って、日本の人たちに見せてください」

マレーシア・ヌグリスンビラン州ティティで、「日治時期森州華族蒙難史料」をめくる蕭招娣さん。(8月27日撮影、クアラルンプール=新華社配信/張紋綜)

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