【新華社北京7月2日】東京裁判において、中国の判検事団はどのような貢献をしたのか。この点について、相異なる評価が存在している。
伝統的には、中国判検事団は一定の貢献を果たしたと評価されてきた。他方で、2000年代に入ると、異を唱える研究が現れるようになった。中国は日本の侵略戦争の最大の被害国であるにもかかわらず、判検事団は犯罪証拠の収集、法律解釈、法廷運営などにおいて西洋諸国の代表団に大きく遅れをとり、法的な貢献は限られていたという指摘が相次ぐようになった。
「法廷における中国の全体的な不振」を強調する見解は、その主張の根拠にも問題がある。日暮を除けば、軒並み梅汝璈や倪征燠ら判検事団の回想録に依拠した主張である。梅や倪ら自身が、当時の取り組みには不足があったと反省的に記しているのは確かである。しかし、それらはどのような意味で「不足」だったのか。
日暮の研究は回想録ではなく国際検察局の法廷記録史料に依拠している。ただ、日暮は、欧米の「法の支配」の伝統には限界があることを認識しながらも、それを基準として対日戦犯裁判を評価している。その法的伝統の外側にいた中国やソ連、インドなど非西側代表団の動向に関する記述は周辺的な扱いにとどまり、西洋的基準からみて劣ったものと捉える傾向が随所に見られる。
これに対し、厳海建は、回想録に基づくネガティブな評価を一次史料の検討を踏まえた研究によって再検討すれば、必ずしも中国判検事団の取り組みが証拠不足や論理薄弱だったとは言い難いことを指摘している。
その必要性を示唆する研究は他にもある。戸谷もまた国際検察局史料に依拠した東京裁判研究を発表しており、その中で、中国代表チームの訴追方針やその努力について触れている。戸谷自身は、①南京大虐殺の検証においては十分論証が行われていたこと、②それ以外の残虐行為の論証は最小限の証拠で立証できると考えていたため、やや不十分な点が残ったこと、とはいえ、③全体として演繹的に立証する方針は他国の訴追方針と一致していたこと、④他国が扱わない阿片問題を追及するなど政治性に左右されない側面があったことを評価している。また、⑤阿片問題を「中国人に対する組織的な残虐行為」、つまりC級犯罪として考えていた節がある、という指摘も重要だろう。中国代表団が一定の努力を行っていることが評価されており、その「特徴」を指摘してはいても、「不振」だったという点は強調されてはいない。
「中国不振派」の研究は、梅汝璈ら判検事団が英米法やその法廷運用に習熟していない点を繰り返し取り上げる。そうなった理由として、中国では大陸法の手続きで法廷運営が行われてきたことにも言及している。事実、英米法に慣れていなかった諸国の代表団はいずれも、証拠の提示や法廷弁論において同様の困難に直面していた。梅汝璈は開廷前の日記のなかで既にこのギャップについて触れており、それを埋めるための意識的な努力を行っていた。同時に、日記には、アメリカの占領政策が寛大に過ぎることや、イギリスの帝国主義的姿勢の残滓への厳しい批判なども記されている。東京裁判のあり方やその中心を担った米英諸国への批判的意識をもちつつ、東京裁判で日本の侵略犯罪を裁くために柔軟な姿勢で向きあっていたことを読み取る必要がある。回想録のなかで判検事団自身が記していたのは、こうした努力を踏まえてもなお足りないところがあったという「反省」 といえる。一次史料に依拠してこうした文脈を踏まえることで、回想録の史料的価値を高めることができる。
歴史的文脈に基づいて事実を捉えることを妨げてしまうのは、彼らの依拠する価値観が「透明で客観的なもの」だと考えられているからだ。その限界を明確にするもう一つの方法として、比較の視点と手法を導入することが重要になる。
たとえば、戸谷の研究はその重要さを教えてくれる。戸谷は、米国検察団を除けば、どの国も証拠収集をほとんどすることなく「ほとんど手ぶら」で東京に赴任したという。なぜ、中国だけが証拠収集の努力が不十分であったかのような捉え方が生まれたのだろうか。
では、中国判検事団のパフォーマンスをどのように評価すべきだろうか。
上に述べたように、一次史料に依拠し、比較の視点を導入することで、「中国不振派」の視野に入っている歴史的文脈が選択的であり、それが西洋中心主義に由来することを確認してきた。
梅汝璈ら判検事団は、東京裁判の運営や裁きのあり方が米英中心、さらには西洋中心主義に深く刻印されているという限界を認識していた。それでもなお、東京裁判の意義と貢献を十分に評価し、同時に、その問題点や違和感をも表明していた。
侵略の事実がありながら事後法で裁けないという事態は、被侵略国として容認できるものではない。それを回避する上で、侵略戦争をA級犯罪として裁く方針を貫こうとした米英中心の東京裁判の体制を受け入れる必要があった。同時に、天皇の免責や細菌戦・化学戦の不訴追など、裁きのあり方が恣意的に流れたときには、批判や違和感を表明してきた。アジアで起きた特徴的な戦争犯罪には、それに見合う法制度の整備が必要であるという問題意識も示していた。これらはいずれも被侵略国として蔑ろにできない最低限の要求だが、すべてを同時に実現することもできない難局に直面していた。
ただ、西洋由来の国際法が視野に入れていないアジアでの被害をいかに取りこぼすことなく裁くかという問題意識があったとはいえ、長年の被侵略下で独自にその法体系を模索し、構築する余裕もなかった。つまり、「被害国の裁き」を実現するための法的、政治的な概念や話語体系が存在しなかったがゆえに、「おとなしく控えめ」に見えてしまったのではないか。
各国のBC級戦犯裁判にまで視野を拡げれば、その多くが英米仏蘭などの植民地宗主国が裁判主体になったことから、宗主国出身の捕虜への虐待といった犯罪が中心に扱われたことが見えてくる。アジア各国の現地住民の被害はごく一部しか扱われなかった。被害者たちの声は、今も十分に耳を傾けられず、裁かれてもいない。東京裁判においてもそうした声にならない声や沈黙が存在していた。それを拾い上げる研究がこれからの課題なのではないか。(石田隆至)