消えた巣鴨プリズン 風化させられた日本の戦争責任

消えた巣鴨プリズン 風化させられた日本の戦争責任

新華社 | 2026-05-05 10:56:45

4月29日、東池袋中央公園内に立つ石碑。(東京=新華社記者/賈浩成)

 【新華社東京5月5日】東京・池袋駅東口から数百メートル歩くと「サンシャインシティ」がある。隣の東池袋中央公園は、意識しない限り80年前の東京裁判と結びつけることは難しい。

 この場所はかつて監獄だった。建てられたのは1895年で巣鴨刑務所、東京拘置所など名を変え、戦前・戦中は主に政治犯を収容していた。1945年の日本敗戦後は連合国軍総司令部(GHQ)が接収し、日本の戦犯を収容する巣鴨プリズンとなった。

 ここには東京裁判で裁かれたA級戦犯に加え、B・C級戦犯の一部も収容され、最も多い時期には約2千人に上った。

 1948年には東条英機ら7人のA級戦犯の死刑がここで執行された。日本本土で裁かれたB・C級戦犯の一部もここで処刑された。巣鴨プリズンは、戦後の日本で戦争責任の追及が最も集中的かつ具体的に行われた場所だった。

 占領体制の終了に伴い、戦犯の扱いも変わっていった。冷戦構造が急速に確立されると、米国など占領国は対日政策を「抑圧と改造」から「育成と利用」へ転換し、日本を西側陣営に取り込む方向へ舵を切った。日本国内では主権回復とともに戦犯釈放を求める声が高まった。

 恵泉女学園大学の内海愛子名誉教授は「当時の日本には戦争裁判を認めたくないという強い傾向があった」と話す。当時は「戦争に負けたから裁判の結果を受け入れざるを得なかっただけ」で、戦犯も「連合国による一方的な裁判の犠牲者にすぎない」と考える人々がいたという。

 こうした認識の下、日本では戦犯釈放を求める運動が急速に広がった。戦犯とその家族を支援する団体も結成され、国会では「赦免決議」なるものが可決された。

 内海さんによると、日本はこの過程で荒唐無稽な新たな論理が形成されたという。戦犯裁判は連合国の裁判であり、日本の裁判ではなく「彼らは日本の法律を犯したのではないのだから、国内で戦犯と見なされるべきではない」という主張である。この論理の下、戦犯は次々と釈放され、手当や年金まで支給されるようになった。

 巣鴨プリズンも終焉(しゅうえん)を迎えた。1958年に最後の戦犯たちが釈放されると刑務所は閉鎖され、その後は一帯が都市再開発の事業地となり、既存の建物は1971年に解体された。1978年には超高層ビルが建設され、東京のランドマークの一つとなった。

 かつての戦争責任追及の場は、消費と娯楽の場へと姿を変えた。罪悪を記録した暗い場所には「サンシャインシティ」の名が冠された。表向きは都市再開発だが、この変化は戦争責任を風化させ、戦争の記憶を書き換えようとする戦後日本社会の意図を映し出している。

 東京には同様の変化が幾つも見てとれる。「東京の戦争遺跡を歩く会」の長谷川順一会長は、長年にわたり東京都内の戦争の痕跡を掘り起こし、それらを現在の都市空間と照らし合わせてきた。長谷川さんの働きかけで作成された「新宿区平和マップ」には、軍機関などの史跡や戦災の跡が記されている。

 長谷川さんは、都市の再開発で当時の痕跡は消えてしまうと指摘。残されたのは日本社会の戦争責任に対する集団的忘却だと感じている。

 東池袋中央公園に巣鴨プリズンの痕跡はほとんど残っていない。片隅に小さな石碑があるのみで「永久平和を願って」と刻まれている。石碑やその周辺には巣鴨プリズンの歴史を説明するものは一切ない。

 警鐘の意味を持つ歴史の遺産が跡形もなくなり、戦争責任は「平和祈願」という言葉に変わった。非道の限りを尽くした日本の侵略の歴史は、日本の人々の記憶からほぼ消し去られてしまっている。(記者/李子越)

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