国際社会は琉球の地位の再検討を 上海交通大学・劉丹氏

国際社会は琉球の地位の再検討を 上海交通大学・劉丹氏

新華社 | 2025-12-14 17:27:31

劉丹氏の著書「琉球の地位-歴史と国際法」。(上海=新華社記者/張建松)

 【新華社上海12月14日】中国の国際法学者、上海交通大学の劉丹(りゅう・たん)副研究員が取材に応じた。劉氏は2012年に琉球問題の研究を始め、19年に「琉球の地位-歴史と国際法」を出版。歴史と法律の客観的な立場から琉球問題の経緯や現在の国際的地位を明確に記述し、厳密な論証を行ったことで知られる。

 劉氏によると、琉球は「万国津梁(ばんこくしんりょう=万国の架け橋)」と呼ばれ、かつては明清時代の中国の藩属国であっただけでなく、アジアの重要な貿易中継国でもあった。地理的意味での「琉球群島」は、中国の台湾島北東と日本の九州島南西の間に広がる弧状の群島を指し、歴史的意味での「琉球」は、山南、中山、山北からなる三山鼎立時代と、その後の琉球王国の対外的な総称を指す。第2次世界大戦後は、戦略的な重要性から米国のアジア太平洋戦略における重要な存在となった。

 19世紀後半、琉球併合を段階的に進めた日本は1872年に「琉球藩」を設置し、75年には琉球から清朝への進貢を禁止。79年に武力によって廃藩置県を行った。その後は中国と日本が琉球の地位を巡る「琉球交涉」に臨んだが、清政府は日本の併合の合法性を認めず、いかなる条約も締結しなかった。

 琉球王国の発展は三つの段階に分けられるという。第1段階は「三山統一」から1609年の薩摩藩の侵攻前までで、琉球は独立王国だった。第2段階は1609年から1872年までで、琉球は薩摩藩による支配を受けながらも政権や年号を保持し、当時の国際社会の認識や国際法の意味において依然として一つの国家だった。第3段階は1879年以降で、日本は武力で琉球を併合したが、中日間で主権の変更が合意に至らず、琉球の領域に関する正式な取り決めも締結されなかった。

 劉氏は「第3段階で琉球帰属問題に関する中日両国の外交交渉や第三国によるあっせん、さらに中日間での『分島改約』交渉がいずれも不調に終わったことは、近代の琉球の地位が『懸案』であった事実を裏付けている」と指摘。「1879年に日本が武力で琉球を併合すると、琉球の人々の抵抗を受け、琉球の宗主国の中国も併合の合法性を認めなかった。日本が1879年から第2次世界大戦終結前にかけて琉球を占領した状態は、武力による征服で琉球を強行に奪い取った結果であり『琉球の法的地位は未定』という事実を覆い隠すことはできない」と語った。

 劉氏によると、1943年のカイロ会談ではルーズベルト米大統領自ら琉球問題に言及し、蔣介石(しょう・かいせき)に琉球の領有を何度も打診。蒋は米国と琉球を共同占領することに同意し「最終的には一つの国際組織(後の国際連合)による信託統治の下で、米国とともに管理したい」と答えた。

 しかし、第2次世界大戦後の琉球の処理は、米国の琉球に対する扱いが信託統治協定を根拠とせず、国連の信託統治体制下でもない自国による軍事占領という「名目上は潜在的な信託統治だが、実質的には軍事占領」だったという特殊性を帯びた。その中で、米国は1972年、「琉球諸島及び大東諸島に関する協定」の発効後に琉球を日本に「返還」した。

 劉氏はこの過程について、国際信託統治制度や軍事占領に関する法規の両方に違反しており、米国は国際法上の根拠と国内法上の十分な権限が欠如したまま琉球の行政と司法、立法を支配し、琉球の人々の権利と意思を著しく損なったと指摘した。

 劉氏は「日本は第2次世界大戦中、琉球の人々に『玉砕』を強要し、戦後は米国が琉球を『太平洋の礎』として利用した」と説明。今では日本の右翼勢力が「台湾有事は日本有事」と喧伝(けんでん)して琉球群島を中国と対抗するための前哨基地に組み込み、琉球の人々を戦争の最前線に引きずり込もうとしていると指摘し、「国際社会は琉球の地位を改めて見つめ直し、日本の軍国主義復活の危険性を警戒し、琉球の人々の人権と意思を尊重して、歴史の悲劇の再演を避けなければならない」と呼びかけた。(記者/張建松)

本ウェブサイトに関するご意見、ご提案等が

ありましたら xinhuanetjp@news.cn までご

連絡ください。