細菌戦研究者の西山勝夫氏が発見した「北支那防疫給水部甲第一八五五部隊 留守名簿」の表紙。(資料写真、北京=新華社配信)
【新華社北京12月12日】旧日本軍の細菌戦部隊と言えば、中国東北部の「731部隊」がよく知られているが、北京にも同様の組織が存在していた――。その実像を裏付ける新資料を、日本の細菌戦研究者、西山勝夫氏(滋賀医科大学名誉教授)がこのほど発見した。
西山氏が公開した「北支那防疫給水部甲第一八五五部隊 留守名簿」は、第2次世界大戦中の1945年2月28日に作成されたもので、すでに見つかっている終戦後の1945年8月29日の留守名簿(部隊所属の将兵らの情報を記載した名簿)とは異なる。「今回発見した名簿には、業務管理規則が明記されており、いくつかの班の名称や責任者の氏名もはっきりと記載されている。きわめて貴重な史料だ」と西山氏は語った。
名簿の最初のページを開くと、「北支那防疫給水部支部出張所一覧表」が現れる。右上には「軍事極秘」の印章が鮮明に押されている。表には本部が北京に置かれ、石門(石家荘)、済南など五つの支部と、天津、塘沽(とうこ)、青島など七つの派出機関、さらに確山と壤城(じょうじょう)の二つの分遣班が設けられていたことが記されている。それぞれの責任者の氏名や軍の階級などの情報もそろっている。
北京に存在したというこの知られざる部隊の実態は何だったのか。どのように細菌戦を実行し、華北一帯の人々にいかなる被害をもたらしたのか。次々に湧き出る疑問を解くため、記者は旧日本軍が中国で犯した罪の証拠をたどる調査へと乗り出した。
天壇公園の神楽署で1855部隊の歴史を説明する北京市档案学会の張斌(ちょう・ひん)副秘書長。(9月15日のスクリーンショット、北京=新華社記者/郭丹)
▽1950年の新聞が記した証言
史料調査を進める中で、かつて1855部隊に所属した松井寛治氏が1950年1月10日付の日本の「アカハタ」(現「しんぶん赤旗」)に寄せた証言が重要な一次史料であることが分かった。多方面にあたって取材を進めた結果、記者は日本国内でこの新聞を見つけることができた。
松井氏はこう語っている。
「応召になり、満州で3カ月の歩兵訓練を受け、昭和20年4月に北京に回され、衛生二等兵として1855部隊篠田隊(注:第三課課長・篠田統)に配属された。ここは細菌兵器研究所だった。ペスト菌とノミの培養を主として行い、対ソ連作戦の準備が行われていた」
「北支那派遣1855部隊とは、当時の北支那派遣軍総司令官、下村定・元中将の指揮下にあり、部隊長は西村英二・元軍医大佐だった。本部は北京の名所・天壇のすぐそばにあって、表面上の仕事は野戦給水および伝染病予防ということになっていたが、業務部門として第一課(病理実験)、第二課(ワクチン製造)、第三課(細菌兵器研究所)があって活動していた」
名簿を照合すると、「西村英二」「篠田統」「松井寛治」の名はいずれも1200人余りの隊員名簿の中に確認できた。冒頭の短い証言だけでも衝撃的である。これほど大規模な細菌部隊が、北京で皇帝が天をまつった場所に潜んでいたのである。実態を明らかにするため、記者は北京市档案学会の張斌(ちょう・ひん)副秘書長に取材を続けた。
▽巨大消毒釜と6本の試験管↵
天壇公園の西門から入ると、張氏は説明を始めた。
1940年2月、日本天皇の勅令により「北支那防疫給水部」が正式に設立され、コードネームは「甲第1855部隊」とされた。北京には本部と三つの課が置かれ、第一課は協和医院、本部および第二課は天壇の神楽署とその周辺、第三課は当時の国立北平図書館向かいの静生生物調査所に設置されていた。↵
神楽署に入ると、張氏は「北支那防疫給水部業務詳報」に記録されている地図を取り出し、照合しながら説明した。「神楽署中央の凝禧殿と顕佑殿は本部の倉庫として使われていた。北側には、中華民国時代に血清やワクチンを製造していた中央防疫処生物製品所があったが、日本人による占領後はそのまま菌苗の製造に使われた。地下には菌苗を保管する冷蔵庫も掘られていた」
日本の降伏後、中央防疫処の職員が接収に入った際、天壇の敷地内で重さ11トン、12トン、13トンの巨大な消毒釜が三つ見つかった。1950年には、4年以上封印されていた地下冷蔵庫から6本の試験管が発見された。「専門家が残留菌を培養したところ、6本のうち5本から強毒性のペスト菌が検出された」と張氏は語る。
神楽署の最も奥にある中庭で、天壇公園職員の党宏斌(とう・こうひん)氏が1855部隊に関連する写真を見せてくれた。写真には、この庭で試験管を手に観察する日本兵、庭に立つエンジュの木の下で記念撮影する日本兵が写っている。「樹齢600年を超えるこの木は、ここで起きたすべてを静かに見つめてきた」と党氏は語った。
細菌戦研究者の西山勝夫氏が発見した「北支那防疫給水部甲第一八五五部隊 留守名簿」の冒頭に掲げられた「北支那防疫給水部支部出張所一覧表」。(資料写真、北京=新華社配信)
▽中華民国時代の二つの記録↵
松井氏は証言の中でこう語っている。「尾崎技師から直接きいたところによると、1942年ごろ徹夜でノミの大量生産を行い、外部に出したことがあり、また対空実験をやり満足すべき結果を得たと言っていた」。細菌実験が行われた具体的な場所は不明だが、名簿には陸軍技師、尾崎繁夫の名がある。
また史料によれば、1855部隊は1943年に北京でコレラ菌散布の実験も行っていた。張氏によれば、「北京崇文区志」には次のように記されている。「1943年8月、1855部隊は北平地区でコレラ菌散布の実験を実施し、屋内外で急速に感染が広がった。崇文区の玉清観、文昌宮、金魚池、東花市、崇外大街、西打磨廠などで多数のコレラ患者が確認された」↵
さらに、北京档案館所蔵の「北京地区防疫委員会防疫課コレラ予防業務報告書(1943年)」にある「(民国)三十二年六月-十月患者行き倒れ死亡者消毒作業統計表」によると、6月と7月の北京のコレラ感染はわずか3例で、死亡報告はなかったが、8月になると爆発的に流行し、10月末までに「患者264人、死亡1780人、行き倒れ92人」が確認されたと記されている。
張氏は「『行き倒れ』とは路上で倒れて死亡した人のことで、死亡統計に直接含まれていない。ただこれを加えても、かなり控えめな推計と言えるだろう」と指摘した。
なぜなら1943年の北京地区防疫委員会のメンバー34人のうち、中国人はわずか11人で、残り23人は日本人だった。1855部隊長の西村英二や総務部長の吉見亨も名を連ねていた。「この『偽北平政府』が公表した数字は、地域の一部や限られた時期のものにすぎず、被害の全貌を必ずしも示すものではない」と張氏は語る。
張氏によると、新中国成立後の日本戦犯の裁判では、中国を侵略した日本軍が1855部隊の山東や山西の支部・派出機関を通じ、同地域でコレラなどの細菌戦を実施していた事実が判明している。
▽持ち去られたノミ培養缶1万個
松井氏によると、1945年8月15日に無条件降伏が発表されると、部隊は直ちに証拠隠滅の作業に入った。
「例の正午のラジオ放送の終わった20分後、隊長の篠田統は細菌研究所の破壊を指令した。作業は三日三晩徹夜で続けられた。裏庭に大穴が掘られ、ノミをその内に入れ、ガソリンをかけて焼き払った。重要書籍、細菌培養器具はすべて焼却された。ノミ培養の石油缶1万個はトラックでどこかへ持ち去られた」
「終戦後7日目、私たちは破壊作業を終わり本部に集結し(中略)部隊の解散が指令され、『北支那防疫給水部』の名称は終戦直後、北支那派遣軍の名簿から抹消され、所属の将兵は各陸軍病院へ転属させられた」
部隊名は削除できても、歴史が消えることはない。敗戦後、日本軍は死に物狂いで証拠隠滅を図ったが、この80年の間に、隊員情報を記録した「留守名簿」や活動を記録した「業務詳報」、さらには元隊員の証言が、1855部隊の存在とその犯罪行為を明らかにしている。
「日本が戦時中に細菌戦を実施したことは否定できない歴史的事実だ。私たちは今後も調査を続け、政府に一層の情報公開を働きかけるとともに、名簿に記載された元隊員や遺族の方々にも研究への参加を呼びかけ、細菌部隊の全貌を一日も早く明らかにしたいと考えている」と西山氏は語った。(記者/郭丹、羅鑫、陳沢安)