
「胡煥庸文集」。計9巻10冊で700万字近くあり、300以上の文献や1300以上の画像が収録されている。(北京=新華社配信)
【新華社北京12月7日】中国の人口分布の明確な対比を示す境界線「胡煥庸線」(黒河・騰衝線)を提唱した胡煥庸(こ・かんよう、1901~1998)は、中国近代人文地理学の礎を築いた人物として知られ、その著作をまとめた「胡煥庸文集」がまもなく出版される。
文集には琉球に関する論考が含まれており、特に注目を集めている。華東師範大学(上海市)の地理科学学院教授で地球科学学部主任、地政学研究院院長の杜德斌(と・とくひん)氏によると、胡煥庸は1945年に「台湾と琉球」を出版したほか、1947年前後に「問世」「社会公論」などの刊行物に「対日講和条約と対日通商問題」「対日講和条約から語る日本の前途」「日本の領土をいかに処理すべきか」などの論文を相次ぎ発表。琉球問題に関する立場と、歴史的背景から法理批判、戦後構想に至る論証体系を論じた。
胡煥庸は「台湾と琉球」において「琉球」という名称の中国での由来を体系的にたどり、琉球が中国で政治的に認識されるようになった時期は明代よりもはるかに早いことを示した。名称の変遷そのものが中華文化による認知の結果であり、こうした歴史的背景が後に成立する宗藩関係の歴史的な前提になったと主張した。
また「中国と琉球の関係は成熟し、安定し、かつ実質的な法的内容を持つ宗藩体系だった」と強調し、中琉関係には友好関係から賜与、冊封に至る三つの制度的支柱があったと指摘。明清皇帝による冊封は、琉球王権の正統性の正式な保証であり、法的にも政治的にも明確な効力を持っていたとした。
胡煥庸は、この高度に制度化された関係が文明の伝播と形成の主要な道筋になったと指摘し、使節による皇帝の詔の伝達、表を奉じての入貢、定期的な冊封要請などの公的な交流を通じて中国の典章制度や律法儀礼、文化概念が体系的に琉球に伝わり、政治構造や文字の使用、倫理慣習に中華文明が深く刻み込まれたと論じた。
「対日講和条約と対日通商問題」などの論文では、1870年代の琉球併合という日本の不法な行為に対して鋭い法理批判を展開。1871年に琉球民が船で台湾に漂着し殺害された「牡丹社事件」については、中国と属邦という内部の問題であるのにもかかわらず、日本は1874年に艦船を率いて台湾に向かい、中国に代わり先住民族を討伐すると称して台東を占拠したとし、当初は「琉球は我が属邦であり、その民が被害を受けても貴国の関与には及ばない」とした清政府も最終的に圧力の下で講和と賠償に応じ「知らぬ間に琉球に対する宗主権を放棄した」こととなり、琉球は日本に併合されたとする経過を明らかにした。
胡煥庸は、事実と論理の両面から日本が長期占領を理由に主権を主張し得るいかなる法理上の根拠(国際法における「時効取得」の原則)も成り立たないと徹底して否定した。その反論の論理は次の三つの層に要約される。
第一層:起点の違法性。日本の支配は武力侵略と強制外交に始まり「平和的占有」という根本的前提を満たさない。
第二層:争議の継続。中国の琉球に対する宗主権の主張は、明清期の冊封慣例から牡丹社事件に対する清政府の抗議、さらに胡煥庸自身に代表される戦後の回復を求める声に至るまで一度も途絶えていない。これは日本の占領が常に法理上・事実上の争議状態にあり「公然かつ平穏な支配」の要件を満たさない。
第三層:戦後の否定。胡煥庸は琉球を「カイロ宣言」における「日本が武力または貪欲によって奪取した土地」と位置づけ、必ず剥奪されるべきものとした。これは戦後の国際法秩序という高みから日本の数十年にわたる統治の違法性を徹底的に宣告し、「既成事実」による弁護の可能性を完全に奪い去った。
胡煥庸は、中国の訴えを第2次世界大戦後期における連合国の核心的国際文書にしっかりと位置づけた。繰り返しカイロ宣言を引用し、琉球が「日本が武力または貪欲によって奪取した土地」という定義に完全に合致し、日本の統治下から「駆逐」されなければならないと主張した。さらに、ポツダム宣言第8項と結び付け、日本の主権は固有の領土に限られ、琉球などの島しょの地位は戦勝国が共同で決定すべきものだと指摘した。
杜氏は「胡煥庸の卓越した点は、法理的論証と地政学的安全保障の切れ目ない結合にある」と評価。70年以上前の「対日講和条約から語る日本の前途」で胡煥庸は「琉球の主権の帰属が曖昧になれば、日本の軍国主義が将来再び要求を突き付けてくるという禍根を残し、東アジアの長期的平和を危うくする」と警告を発したほか、「琉球の地位の取り扱いは明確かつ徹底されるべきであり、すなわち完全に中国へ返還するか、将来にわたって決して日本と結び付くことのない国際的な枠組みに置くべきだ」と強く主張したとその卓見を紹介した。