運城市の後漢墓から出土した豚小屋の模型。(運城=新華社配信)
【新華社太原4月23日】中国の山西省考古研究院はこのほど、同省運城市平陸県茅津村の北東で発掘した後漢時代の墓3基に関する情報を公開した。3基のうち、隣り合うM7号墓とM8号墓は墓磚(ぼせん、磚はれんがの意)の一部に不規則な赤い塗料が施されていた。もう一つのM27号墓の出土品は他の2基と大きく異なり、専門家は後漢末期に曹操が発布した「薄葬令」の後に造営された可能性が高いとしている。
墓は、同考古研究院が2023年10~12月に運城市の考古部門と共同で発掘した。発掘プロジェクトのリーダーを務めた丁金竜(てい・きんりゅう)氏によると、M7号墓は単室磚墓(れんが造りの墓)で副葬品22点が出土。M8号墓は多室磚室で副葬品は23点だった。造営はM7号墓の方が古く、いずれも長い傾斜墓道を持ち、出土品は2基とも銅銭や施釉陶器、銅鏡などで、後漢中~後期の特徴を備えていた。
運城市の後漢墓から出土した緑釉陶製の井戸模型。(運城=新華社配信)
関係者が注目したのは赤く塗られた墓磚で、専門家は、壁画のれんがを再利用したのではなく、墓の造営現場で塗られたものだと指摘。赤い塗装は、れんがが強固であってほしいといった期待、墓という特殊な建造物に対する邪気払いなどの宗教的な感情に由来するのではないかとの見方を示した。
後漢時代は死者を手厚く葬る「厚葬」が盛んに行われた。中でも「事死如事生」(死後も生前と同じ)の葬儀習慣が重視され、副葬品は日用品から家屋まで多岐にわたった。M8号墓出土の明器は種類も多く、作りも精巧で、井戸や羊小屋、豚小屋の模型は実物を忠実に再現しており、当時の人々の暮らしぶりを今に伝えている。
運城市の後漢墓から出土した角が赤く塗られた墓磚。(運城=新華社配信)
M27号墓も長い傾斜墓道を持つ多室磚室だが、M7、M8号墓と異なり赤く塗られたれんがはなく、後漢墓によく見られる施釉陶器や案(膳卓)、杯、皿、勺などの奠器(礼器)の組み合わせもなかった。専門家は、曹操が建安10(205)年に薄葬令を出した後に造られた墓ではないかと推測している。(記者/王学濤)
運城市の後漢墓から出土した釉陶豆形灯。(運城=新華社配信)
運城市の後漢墓から出土した釉陶製の犬の模型。(運城=新華社配信)
運城市の後漢墓から出土した羊小屋の模型。(運城=新華社配信)
運城市の後漢墓から出土した緑釉陶製の竃(かまど)模型。(運城=新華社配信)