19日、聶耳の母校、長春小学校の教師・児童代表と記念撮影する藤沢市代表団一行。(昆明=新華社配信/肖迪)
【新華社昆明11月26日】中国雲南省昆明市にある淡水湖、滇池(てんち)の北側東岸にある景勝地、海埂大壩は初冬を迎えても生気に満ちあふれており、シベリアから飛来したユリカモメが聶耳(ニエ・アル)像の周りを舞っている。
聶耳の像は西山を背にして湖畔にたたずんでおり、バイオリンを弾くその姿は、まるで音楽を通じ、長い年月をかけ紡がれた物語を語りかけているかのようだ。
大海を挟んだ日本の神奈川県藤沢市にある鵠沼海岸には、聶耳の記念碑が富士山と向き合い、静かに立っている。
昆明と藤沢の両都市は山と海を越え、音楽の巨匠の縁で心を通わせ、波乱に満ちた運命の中で国境を越えた調和の楽章を奏でてきた。
中国の音楽家、聶耳は1912年に昆明で生まれ、小中学校を卒業後、雲南省立第一師範学校に入学した。
19日、昆明市の西山にある聶耳の墓を訪れ、花を手向ける藤沢市代表団一行。(昆明=新華社配信/肖迪)
求実小学校(現在の長春小学校)在学中に児童音楽団に参加した聶耳は、次第に音楽への関心を高めていった。1935年初頭に日本に留学すると、後に新中国の国歌となる「義勇軍行進曲」を作曲。中国人留学生の食事会で初めてバイオリンを演奏し披露したが、残念なことにこれが最初で最後の演奏となってしまった。聶耳はその年、藤沢市の鵠沼海岸で遊泳中に帰らぬ人となった。享年23歳だった。
聶耳の遺骨は曲折を経て37年に故郷に戻り、昆明の滇池湖畔にある西山に埋葬された。
54年11月1日、藤沢市は聶耳が亡くなった鵠沼海岸に記念碑を建立し、花が咲き誇るこの場所を「聶耳記念広場」と名付けた。毎年命日の7月17日には、同市の市民たちが記念碑を訪れて碑前祭を営み、聶耳を追悼している。
81年11月5日、聶耳が生まれた昆明市と聶耳が亡くなった藤沢市は正式に友好都市提携を結び、藤沢市は雲南省にとって最初の国際友好都市となった。このような歴史的背景の下、両市の友好都市関係は現在まで引き継がれ、43年目を迎えた。
「2024雲南国際友好都市青少年交流週間」のイベントに参加した日本の若者たちのはがきと写真。(組み合わせ写真、昆明=新華社配信/王靖宇)
2024年の中国国際友好都市大会が今月18日に昆明市で開幕した。藤沢市代表団はその翌日に聶耳の墓参りをし、母校の長春小学校の教師や児童代表と交流した。
藤沢市の鈴木恒夫市長はこれが8回目の昆明訪問となるが、来るたびに昆明の日進月歩の変化を感じるとし、「発展の潜在力を秘める都市だ」と話した。昆明市と藤沢市は友好都市提携以来43年間、緊密に行き来し、友好訪問の代表団を派遣し合い、聶耳記念イベントや「中国物産展」「昆明・藤沢文化交流展」などを共同開催してきた。
「你好(ニーハオ)雲南」「我愛你(愛してる)雲南!」。今年10月中旬に開催された「2024雲南国際友好都市青少年交流週間」のイベントでは、日本の若者たちが雲南に向けて中国語でこうした愛情のこもったメッセージを書いた。雲南省麗江市では、日本の若者たちがはがきに現地の少数民族ナシ族の文字で「中日友好」の思いを書き記した。
時の流れの中で、昆明市と藤沢市はさまざまな形で友好都市としての関わりを続けてきた。24年中国友好都市大会の「都市の歴史的・文化的ルーツの保護と継承」パラレルフォーラムで、鈴木市長は聶耳の話を例に、昆明市との友好関係の継続に向けて藤沢市が講じてきた措置を他の参加者と共有した。(記者/王賢思、趙彩琳)