10日、長野県の自宅で新華社の取材を受ける清水英男さん。(大阪=新華社記者/張笑宇)
【新華社大阪8月14日】第二次世界大戦中、中国侵略日本軍731部隊に少年隊員として所属していた清水英男さん(94)が13日、部隊があった黒竜江省ハルビン市を79年ぶりに訪れ、一生背負った重荷の原点となる部隊跡地(現:侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館)に戻った。
「世論のこと、体のこともあるが、やはり中国に行きたい」。出発前の10日、清水さんは長野県の自宅で新華社の取材に対し、謝罪のための中国行きを決意した心境を語った。
10日、長野県の飯田市平和祈念館で開かれた「第35回平和のための信州・戦争展」で、日本の民間平和団体「平和のための信州・戦争展飯伊地区実行委員会」の久保田昇前事務局長(左)と言葉を交わす清水英男さん。(大阪=新華社記者/張笑宇)
清水さんは1945年、731部隊最後の少年隊員の一員としてハルビンで4カ月余りを過ごし、同年8月14日に部隊とともに撤退し、その後中国から逃げた。2016年に731部隊の少年隊員だったことを公表して以後は、部隊の犯罪行為を明らかにして人びとに歴史の真相を語ることに力を注いできた。
清水さんは回顧録の中で「昭和二十(1945)年八月十一日朝、先輩研究者が『まだ煙が出ているな』と話していたのは、特設監獄にいた丸太(日本軍に捕らえられ実験材料にされた人たち)の人たちを焼いた煙であったのではないかと思います」「十二日には、特設監獄の中に入り、焼いた人の骨拾いを行いました」「十三日は、貨車へ荷物の積み込みを行い…」などと記している。
10日、長野県の飯田市平和祈念館で開かれた「第35回平和のための信州・戦争展」で展示された731部隊員が持ち帰った医療器具。(大阪=新華社記者/張笑宇)
これらの記述は歴史の真相と向き合おうとしない一部の日本人の怒りを買ったが、向けられた疑問や攻撃に対しては自らの経験と否定しようがない資料で応じた。清水さんは、中国からの撤退時には部隊に関する証拠の廃棄を命じられたが、わずかな資料が日本に持ち帰られ、自身が731部隊で所属していた事実の証明になったと述べた。
清水さんにとって、ハルビンでの4カ月余りの経験は生涯の悪夢となった。部隊の標本室では胎児や乳児、幼児の標本を見たという。「自分の子どもが小さい時は標本室のことを思い出した。夜泣きをすれば(それらの子どもも)泣いていたのではないかと思った」と語り、目に涙を浮かべた。
11日、中国に向け長野県の自宅を出る清水英男さん。(大阪=新華社記者/張笑宇)
79年ぶりに中国に戻るに当たっては二つの考えがあるとし「引き上げる時にペスト菌を持ったネズミを解放したが、ハルピンの人たちにどういう被害をもたらしたか知りたい」「丸太という解剖されてしまった人たちの冥福を祈りたい」と語った。
10日午後、荷物をまとめた清水さんは長野県の飯田市平和祈念館で「第35回平和のための信州・戦争展」に参加した。2015年に同館の展示を見て思わず自らの経緯を明かした清水さんは、同展の飯伊地区実行委員会の励ましの下で16年から公開講演を行い、日本軍の犯罪行為を暴くようになった。
12日、関西国際空港から中国に向かう清水英男さん。(大阪=新華社記者/張笑宇)
飯田市平和祈念館を考える会の原英章事務局長は、94歳の高齢にもかかわらず中国行きを決心した清水さんに敬意を示し「一個人ではあるが、清水さんが現地へ行き、亡くなられた方たちを慰霊したいという強い気持ちを持っていることを政府も考えるべきだと思う」と述べた。
原さんは「会員は地元だけでなく東京や大阪、北海道の方もいる。皆さんに(清水さんの渡航費用を)お願いしたところ約90万円集まった」と紹介した。
11日、黒竜江省ハルビン市の侵華日軍第七三一部隊旧跡。(ドローンから、ハルビン=新華社記者/張濤)
展示会場には90歳を過ぎた同委員会の久保田昇前事務局長も訪れた。久保田氏さんは731部隊が日本の侵略戦争の最も典型的な代表だとし「現地の皆様に謝罪したいという気持ちがあった。清水さんでなければできない」と語った。
12日には8時間かけて中国へ向かう清水さんを関西国際空港で見送った。保安検査に進む背中を見送る記者の耳には「私は平和のために(中国に)行く気になったわけです」という清水さんの言葉が再び響いた。(記者/郭丹、李光正、張笑宇)
11日、黒竜江省ハルビン市の侵華日軍第七三一部隊旧跡。(ハルビン=新華社記者/王建威)