今も生きるバンドン精神 「サウス」連帯の幕開け

今も生きるバンドン精神 「サウス」連帯の幕開け

新華社 | 2024-04-24 21:19:07

1955年4月18~24日、インドネシア・バンドンで開催されたアジア・アフリカ会議。アジア・アフリカの29の国と地域の政府代表団が参加した。(資料写真バンドン=新華社記者/銭嗣傑)

   【新華社ジャカルタ4月24日】インドネシアのバンドン中心部を東西に延びるアジア・アフリカ通り。車が頻繁に行き交い、観光客がそぞろ歩く通りの両側にはコロニアル様式の建物が並び、過ぎ去った苦難の時代の記憶をとどめている。後に「バンドン会議」として知られることになる第1回アジア・アフリカ会議(AA会議)は69年前の1955年4月18日、この通りに面した建物を舞台に開かれた。

   ▽アジアとアフリカの新生

   アジア・アフリカ会議は、アジアとアフリカの国と地域が、植民地を支配した旧宗主国の参加なしに行い、アジアとアフリカの人々の切実な利益について話し合った初の大型国際会議だった。第2次世界大戦後に相次いで独立した「サウス」の国々による連帯の始まりを告げ、何世紀にもわたり西側が主導してきた世界の勢力図に変化が生じるきっかけにもなった。

   火山に囲まれたバンドン盆地は標高平均700メートル余りで、美しい景色と快適な気候に恵まれている。オランダ植民地時代には「ジャワのパリ」と呼ばれていた。アジア・アフリカ会議が行われた、アジア・アフリカ通りで今も目を引く乳白色の3階建ての建物「ムルデカ会館」も、もともとはオランダ人入植者のため1895年に建てられた高級クラブだった。

   

インドネシアのジョグジャカルタ特別州にあるプランバナン寺院の一角と遠くに見えるムラピ火山。(2023年2月4日撮影、ジョグジャカルタ=新華社記者/徐欽)

   インドネシア独立後、独立を意味する「ムルデカ」という名をこの建物に付けたのは、スカルノ初代大統領だ。アジア・アフリカ会議の開会式で、スカルノ氏は「サウス」の国々を代表し「人類史上初の有色人種による大陸間会議だ」と高らかな目覚めの声を上げた。この建物は現在、アジア・アフリカ会議博物館となっている。

   新たに生まれたアジアとアフリカの国々はこの重要な会議で、帝国主義と植民地主義への反対を旗印に掲げ、主権と独立の擁護を強調、多国間主義と主権平等の原則による国際問題の解決を主張し、「団結、友好、協力」を核とするバンドン精神を提唱した。

   中国からは周恩来(しゅう・おんらい)総理が代表団を率いて出席。中国が提唱した「平和共存5原則」は最終的にバンドン精神の重要な一部になり、世界の圧倒的多数の国に受け入れられ、国際関係の規範および国際法の基本原則となった。

   

14日、インドネシアのジャカルタ歴史博物館に展示された、植民地時代にオランダ東インド会社が運用していた船の模型。(ジャカルタ=新華社記者/葉平凡)

   ▽過酷な植民地支配

   アジア・アフリカ会議と非同盟運動の提唱国の一つ、インドネシアは、300年以上西側列強の植民地支配を受け、入植者の貪欲さと残酷さを知り尽くしてきた。

   赤道をまたぐインドネシアは世界最大の島しょ国であり、火山が世界で最も多い国の一つでもある。火山灰の堆積で形成された肥沃(ひよく)な土壌と良好な気候に恵まれ、クローブやナツメグ、コショウなどのスパイスが良く育つ。ポルトガル人は1512年にこの地に到着すると、ヨーロッパやその他の地域にスパイスを絶え間なく売り続け、莫大(ばくだい)な利益を得た。

   

14日、旧オランダ植民地政庁の裏にある地下監獄。オランダの入植者は支配に抵抗した人々や囚人をここに投獄した。(ジャカルタ=新華社記者/葉平凡)

   ポルトガル人がにわかに築いた巨額の富は他の欧州諸国を刺激し、スペインやオランダ、英国などもスパイスで一儲けしようと競って船隊を派遣、今日のマレーシアとインドネシアに相次いでやって来た。1619年、オランダはジャワ島の貿易中心地ジャヤカルタを奪取し、バタビアと名前を変え、オランダ東インド会社の東インド総督府を置いた。長期にわたりインドネシア植民地統治の拠点となったこの都市こそ、現在の首都ジャカルタに当たる。

   オランダ東インド会社は「会社」と名乗っていたものの、その実態は暴力集団であり、艦隊や傭兵を抱えていたばかりか、通貨の発行や関係国との条約の締結、海外占領地への植民地支配まで行っていた。統計によると、オランダ東インド会社はその200年近い歴史の中で、大小合わせて約800回の武力衝突を経験している。

   

14日、インドネシアの首都ジャカルタの旧市街にある旧オランダ植民地政庁。1710年に建設され、かつてはオランダ東インド会社とオランダ植民地政府のインドネシア政庁として使われた。1974年にジャカルタ歴史博物館となった。(ジャカルタ=新華社記者/葉平凡)

   オランダ東インド会社はスパイス貿易を掌握すると、インドネシアに巨額を投じてさまざまなプランテーションの開発を始め、カカオや茶、タバコ、ゴムの木、サトウキビなどの外来の商品作物を次々と導入した。さらに周辺地域から多数の労働者を集め、時にはだまして連れてきて働かせた。

   オランダ植民地当局は1830年に「強制栽培制度」を導入。地元住民に対し、土地の20%をインディゴ、コーヒー、サトウキビなどの輸出用商品作物の栽培に使うことを義務付けた。実際には植民地当局があまりにも多くの土地を接収したため、地元の人々の食用となる作物を栽培する土地がほとんどなくなり、飢餓がまん延する惨状に陥った。

   ▽「インドネシアは告発する」

   バンドン市庁舎の近くに現在、「インドネシアは告発する」博物館がある。1907年に建てられたこの建物は、オランダ植民地当局がオランダの支配に抵抗した人々を裁判にかけるために使用していた。スカルノ氏もこの場所で裁判にかけられ、「インドネシアは告発する」として知られることになる法廷陳述を行った。

   スカルノ氏らは1927年、インドネシア国民同盟(後にインドネシア国民党と改称)を結成し、民族独立を勝ち取るためオランダに対する「非協力」政策を掲げた。2年後、オランダ植民地当局はスカルノ氏を反逆罪で逮捕。スカルノ氏は自ら長い被告側弁論を行い、入植者の犯罪を数え上げ、民族独立を求める正義の闘争をインドネシア人民に訴えかけた。

   

インドネシア・バンドンで開催された第1回アジア・アフリカ会議に出席するため、バンドンに到着したインドネシアのスカルノ大統領。(資料写真、バンドン=新華社配信)

   1955年、スカルノ氏の裁判が行われた地点からわずか1キロのアジア・アフリカ通りで、スカルノ氏らが発起した第1回アジア・アフリカ会議が開催された。会議の成功はインドネシアとバンドンの人々の誇りとなり、アジア・アフリカの人々の目覚めと連帯の象徴となった。

   バンドン市街地の北部には西ジャワ人民闘争記念碑が建てられ、その下には西ジャワ人民闘争博物館が設けられている。植民地時代から建国期にかけ、西ジャワ地域で民族の独立のために戦った多くの英雄的な人々やその事跡が紹介されている。

   ▽連帯する「グローバルサウス」

   2023年8月下旬、南アフリカのヨハネスブルクで開催されたBRICS首脳会議で、インドネシアのジョコ大統領はグローバルサウス諸国に対し、連帯して自らの発展の権利を守り、進歩を妨げる行為に反対するよう呼びかけた。

   それからまもない9月7日、「一帯一路」共同建設協力を象徴する「ジャカルタ・バンドン高速鉄道」の終点となるバンドンのテガルアール駅が初めて一般公開された。ジャカルタからバンドンまでの所要時間は同鉄道の開通で3時間余りから40分強に短縮した。バンドンでの仕事や生活はぐっと便利になり、経済活動が活発化、就業チャンスも増加した。

   中国の習近平(しゅう・きんぺい)国家主席は2015年4月、アジア・アフリカ首脳会議とバンドン会議60周年記念活動に出席するためインドネシアを訪問し、ジョコ大統領と共に、中国とインドネシアによるジャカルタ・バンドン高速鉄道プロジェクトの実施に関する基本合意書の調印に立ち会った。同月22日のアジア・アフリカ首脳会議ではジョコ大統領の招きで習近平氏が最初に登壇し、「バンドン精神を発揚し、協力・ウィンウィンを推進しよう」と題した重要演説を行った

   習近平氏は「60年前、アジアとアフリカの29の国と地域の指導者がバンドン会議に出席し、団結、友好、協力のバンドン精神を形成、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの民族解放運動を促し、世界的な植民地体制の解体という歴史的プロセスを加速させた」と語った。

   習近平氏はさらに「新たな情勢の下でも、バンドン精神は依然として強い生命力を放っている。われわれはバンドン精神を大いに発揚し、時代に合った新たな意味づけをしていく必要がある。協力・ウィンウィンを核とした新型国際関係の構築を推進し、国際秩序と国際システムをより公正かつ合理的な方向に発展させ、人類運命共同体の構築を促し、アジアやアフリカ、その他の地域の人々にさらなる幸福をもたらさなくてはならない」と述べた。

   今日、ジャカルタ・バンドン高速鉄道が疾走する姿は、「団結、友好、協力」というバンドン精神の新時代における豊かな意味合いの一つを体現していると言える。

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