日本政府が謝罪するまで死んでも死にきれない 比人元慰安婦の訴え

日本政府が謝罪するまで死んでも死にきれない 比人元慰安婦の訴え

新華社 | 2022-08-15 18:52:17 | 編集:

「リラ・ピリピーナ」の事務所で新華社の取材を受けるエステリタさん。(7月29日撮影、マニラ=新華社記者/劉鍇)

 【新華社マニラ8月15日】フィリピン・マニラ首都圏にあるケソン市のフィリピン人元「慰安婦」権利保護団体「リラ・ピリピーナ(フィリピンおばあさん同盟)」の事務所では、壁一面に「慰安婦」被害者の写真が張られ、当時の日本軍が犯した重罪を無言で訴えている。

「リラ・ピリピーナ」の事務所近くの庭を通るエステリタさん。(7月29日撮影、マニラ=新華社記者/劉鍇)

 エステリタさん(92)は、フィリピン人元「慰安婦」の一人。悪夢のような当時の悲惨な体験に今でも苦しめられている。

「リラ・ピリピーナ」の事務所の壁一面に張られた「慰安婦」被害者の写真。(7月29日撮影、マニラ=新華社記者/劉鍇)

 「リラ・ピリピーナ」のコーディネーター、シャロン・シルバ氏によると、1942~45年、日本軍がフィリピンを占領した期間に約千人の現地女性が「慰安婦」として強制徴用された。

「リラ・ピリピーナ」の事務所で新華社の取材を受けるエステリタさん。(7月29日に撮影、マニラ=新華社記者/劉鍇)

 44年、当時14歳だったエステリタさんはフィリピン中部の故郷バコロドの市場で日本兵に拉致され「慰安婦」となった。

 エステリタさんは新華社の取材を受けた際、「私は日本兵の暴行を受けるたび、泣きながら手で目を覆った。日本兵に頭を強く打たれ、3日間気を失ったこともある」と語った。

 45年に日本が降伏した後、エステリタさんは「慰安婦」だった過去が今後の人生に影響することを恐れ、単身マニラへ向かった。結婚し、子ども6人を育てたが、「当時のことを恥と思い、夫には話さなかった」と振り返った。

 92年にロサ・ヘンソンさんが最初に元「慰安婦」として名乗り出るまで、エステリタさんは半世紀近く秘密を守り通した。その後、ほかの被害者も次々と日本軍の暴行を告発し、日本政府に謝罪と補償を求めるようになった。

 シルバ氏によると、「リラ・ピリピーナ」に加入した元慰安婦は92~96歳の計174人。

 生存者の減少が続き、シルバ氏は被害者が日本政府から正式な謝罪を受けられないまま亡くなってしまうことを最も恐れている。同氏は「彼女たちは正義を求めている。まず最も重要なのは日本政府の謝罪だ。青少年が学習し記憶するために、この歴史を教科書に記載しなければならない」と強調した。

 しかし日本政府は「慰安婦」問題を謝罪しないばかりか、被害者の人権擁護活動をあらゆる方法で妨害している。2017年12月、マニラ湾沿いに「慰安婦」を象徴する像が設置されたが、日本政府は強い不満を表明、フィリピン政府に圧力をかけ続け、4カ月後に像は撤去された。

 シルバ氏は、日本政府が教科書の改ざんを通して歴史を歪曲していることが、日本の若者に第2次世界大戦に対する正確な歴史観の欠如をもたらしていると考えている。

 体が弱ってきてもフォーラムや集会に参加し、日本政府に正式な謝罪と賠償の要求を続けるエステリタさんは「私はやめない。私が死んでも、子どもや孫が戦争犯罪を訴え続けるでしょう。次の世代に同じ苦しみを味わわせたくない」と語った。(記者/閆潔、劉鍇、楊雲起)

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