奴隷貿易の苦難と連帯への道 グローバルサウスの覚醒

奴隷貿易の苦難と連帯への道 グローバルサウスの覚醒

新華社 | 2024-09-23 09:45:52

   ケープコーストの奴隷貿易城塞。(6月19日撮影、アクラ=新華社記者/李亜輝)

   【新華社アクラ9月23日】米国の著名黒人歌手のスティービー・ワンダーさんは74歳の誕生日を迎えた5月13日、ガーナの首都アクラの大統領府で、アクフォアド大統領から身分証明書を受け取り、同国の市民権を得た。

   記録に残る最初のアフリカ人奴隷が北米の英領バージニア(現在の米バージニア州)に着いたのは1619年。かつて奴隷貿易の拠点だったガーナは400年後の2019年、世界に散らばるアフリカ人の子孫が故郷の地を踏み、祖先とのつながりを探す「帰還の年」キャンペーンを開始した。

   ガーナがある大西洋岸は、無数のアフリカ人奴隷が郷土を離れる前の中継地だった。奴隷の悲しみが染み込むこの地は、後にアフリカ独立運動と汎アフリカ主義の発祥の地になった。

   ケープコーストにある奴隷貿易城塞の地下牢に手向けられた花。(6月19日撮影、アクラ=新華社記者/李亜輝)

   賛美歌の歌声と奴隷の泣き声

   ガーナ・セントラル州ケープコースト。潮風が吹き寄せる海辺に、三角形の石造りの城塞がある。「雄壮な建物の背後にある物語には心を痛めずにいられない」。ガイドとして18年働くロバート・メンサさんは語った。欧州人が築いた同様の城塞は西アフリカ沿岸に60カ所以上あり、うち40カ所余りがガーナに集中している。かつては奴隷を一時的に収容していた。

   大航海時代の15世紀半ばに西アフリカ・ギニア湾に達した欧州人は、各地で得られる商品にちなみ、ガーナを「黄金海岸」、コートジボワールを 「象牙海岸」、現在のトーゴ、ベナン、ナイジェリアの一部を「奴隷海岸」と呼んだ。

   アメリカ大陸と西インド諸島を植民地にした欧州人はタバコや綿花、サトウキビなどを栽培し、金銀などの鉱物資源を強奪したが、入植者の殺りくと虐待により先住民族の人口が激減すると、労働力の需要を満たすためアフリカに目を向けた。政府の後押しもあり、貿易業者は大規模な奴隷貿易を始めた。

   ケープコーストの奴隷城塞は、同様の施設の中で最も規模が大きい。メンサさんは記者を地下牢に案内すると「奴隷たちはここで食べ、眠り、排泄した。排泄物や嘔吐物、血などあらゆる汚物の中で生き、多くが死んだ。彼らの遺体は瀕死の奴隷たちと一緒に海に投げ込まれた」と説明した。

   地下牢の上には小さな教会があり、入り口近くに地下牢を監視する天窓があった。「彼らが賛美歌を歌った時、奴隷たちの泣き叫ぶ声も聞いたはずだ」。メンサさんは興奮した口調で「彼らは人身売買をしながら祈りをささげていたのだ」と語った。

   ベナンの町ウィダに立つ「帰らずの門」。(5月27日撮影、ウィダ=新華社記者/李亜輝)

 ケープコースト城塞から東に約450キロ。ベナンの町ウィダの海岸に、「帰らずの門」と呼ばれる奴隷貿易を象徴する巨大なモニュメントがある。門は、かつて奴隷市場だったチャチャ広場から伸びる4キロの「奴隷街道」の終点になっている。

   16世紀初頭にブラジルに上陸したポルトガル人は、大規模なサトウキビ栽培を行った。農園での残酷な労働制度と病気により原住民の人口が急減すると、農場主はアフリカから奴隷を連れてきた。1630年までに約17万のアフリカ人奴隷がブラジルに運ばれ、サトウキビは奴隷制と密接に結び付く作物となった。ドイツの歴史家ウォルフガング・レオンハルトは、ブラジルのサトウキビ農園の労働者は1638年までにほぼアフリカ人になったと指摘している。

   ベナンの町ウィダのチャチャ広場。(5月27日撮影、ウィダ=新華社記者/李亜輝)

   カリブ海諸国の地域共同体「カリブ共同体」(カリコム)のシャーマン・ピーター国連大使は、15世紀半ばから19世紀末までの400年余りに1200万~2千万人のアフリカ人が代々暮らしたふるさとから連れ出され、奴隷になったと説明した。

   4世紀にわたる奴隷貿易は、西側諸国に巨万の富をもたらし、資本の原始的蓄積の一部になったが、それはまた、当時の西側諸国が主導したグローバル化プロセスの残忍性と流血性を人々に認識させることになった。

   奴隷制も反奴隷制もすべては利益と帝国のため

   カリブ海の島国トリニダード・トバゴの首相を長きにわたり務め、学者としても高い評価を受けたエリック・ウィリアムズは1938年、オックスフォード大の博士論文で「欧州の人道主義精神が奴隷制廃止運動で重要な役割を発揮した」とする欧州植民史家の従来の説に対し「奴隷制廃止は道徳的反省ではなく、経済的利益と戦略的必要性を考量した結果」との見解を示した。

 「奴隷制も反奴隷制も、すべては利益と帝国のため」。ウィリアムズは代表著作「資本主義と奴隷制」の中でこのように指摘。奴隷が生み出した富は産業革命を促進したが、資本主義がある段階に達すると奴隷制は自由貿易と資本主義の妨げになったと論じた。

   ガーナの首都アクラで新華社の取材に応じる歴史学者のヤウ・アノキエ・フリンポン氏。(6月17日撮影、アクラ=新華社記者/李亜輝)

   ガーナの歴史学者ヤウ・アノキエ・フリンポン氏は「国が工業化を成し遂げれば肉体労働の需要は大きく減少する。機械は休みなく稼働できるが、奴隷労働には効率と時間の点で限界がある」と奴隷の需要が減少した理由を説明。奴隷制の終焉(しゅうえん)は西洋人の一時的な良心によってではなく、生産モデルの変化や道徳的議論、法的課題などさまざまな要因が重なった結果だと指摘した。

   アフリカの人々も抵抗闘争を諦めなかった。1791年に始まったハイチ革命は、時代の変化の号砲となった。フランス入植者に対するハイチの奴隷の反乱は1804年に成功し、奴隷制を廃止した世界初の国が誕生した。

   英国議会は1807年に奴隷貿易禁止法を可決し、他の欧州諸国も同様の法律を公布したが、奴隷貿易はその後も非合法下で続けられ、19世紀末にようやく世界からほぼ姿を消した。

   しかし、アフリカの災難は終息には程遠かった。1884~85年のベルリン会議の後、西欧列強はアフリカ全土への侵略と狂気じみた分割を開始。アフリカの苦しみを深め、長期にわたる貧困と停滞に直面させた。

   アフリカは団結しなければならない

   ガーナの首都アクラの中心部にあるクワメ・エンクルマ廟。独立運動の指導者、初代大統領の遺骨を安置した霊廟に立つモニュメントに、エンクルマの有名な言葉が刻まれている。「私はアフリカ人だ。アフリカで生まれたからではない。私の心の中にアフリカが生まれたからだ」。

   ガーナは1957年3月6日に独立を宣言し、サハラ以南のアフリカで初めて西側の植民支配を脱した国となった。「ガーナの父」エンクルマは徹底した汎アフリカ主義者で、アフリカ大陸の真の独立と繁栄を勝ち取るための団結を呼びかけた。

   ガーナの首都アクラのクワメ・エンクルマ廟(6月19日撮影、アクラ=新華社記者/李亜輝)

   汎アフリカ主義は各地に散らばるアフリカ人奴隷の子孫たちからも支持された。1900年にロンドンで開かれた第1回汎アフリカ会議には、米国や西インド諸島、アフリカの代表が集まり、世界の黒人の境遇について議論し、アフリカと西インド諸島の植民地に自治権を与えるよう呼びかけた。

   ガーナ独立の1年後の1958年4月にはアクラで第1回アフリカ独立諸国会議が開かれ、アフリカ統一機構の構想が徐々に形作られた。1963年にアフリカ統一機構(OAU)、2002年にはOAUを継承したアフリカ連合(AU)が発足。自立と自強に向けたアフリカの歴史の新たな1ページを刻んだ。

   エチオピア・アディスアベバのアフリカ連合本部。(2月17日撮影、アディスアベバ=新華社記者/李亜輝)

   2023年11月、アフリカ連合とカリブ共同体の代表がアクラで会議を開き、世界的な賠償基金の設立に合意。大西洋横断奴隷貿易の期間中に奴隷にされたアフリカ人に対する正式な謝罪と賠償を欧州諸国に促した。

   ガーナのアクフォアド大統領は会議の開会式で、奴隷貿易の傷と結果は金銭で償えるものではないとしつつも「(賠償問題)は世界が向き合うべき問題で、これ以上見過ごされてはならないのは確かだ」と述べた。

   アフリカの人々が歴史の痛みを忘れたことはない。故に彼らは自信と自立を強め、声高に公正を訴え、しかるべき権益を勝ち取り、世界に新しいアフリカの姿を示している。かつての「暗黒大陸」は、歴史の大河の中で再生を遂げ、輝かしい未来へと歩みを進めている。(記者/周楚昀、許正、朱瑞卿、李亜輝、孫毅)

   ケープコーストの奴隷貿易城塞。(6月19日撮影、アクラ=新華社記者/李亜輝)

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